Haruka Noguchi

Haruka Noguchi

Recently,lately,nowadays,...

 「久しぶりにブログ更新するか」と思ってGithubを開くと、前回の更新がちょうど2年前の今日だった。「運命的なものを感じる」といえばチープだけど、そういったことは人生においてしばしば起きる。時計を見たら12時34分だったり。時間の単位は、流れていく時間を掴むために昔の人が決めたでその値に特別な意味はないけど、その無意味なものに何か意味を見出して喜んだり悲しんだりする気持ちは決して無意味じゃないと思う。


大学に行って研究をし、論文を読んで、そのほかにやらなければいけないことや送らなければいけないメールを送って、16時を過ぎるころになると決まって悲しい気持ちになる。研究は(基本的には)楽しく、そのほかのやらなければいけないことも、やりたいことをやるためのプロセスなので結局楽しいのだけど、段取りを組んで作業を進めていくと、自分がある目標を達成するための最適な「かたち」に収斂していくような気がしてがして「オエー」という気分になる。

ある「かたち」になること。

去年まで週に3日は飲み歩いていた友達は、いま東京の外資系企業で頑張っている。「就職すると仕事のことしか考えられなくなる」と言って嘆いていた。当時はそれを聞いて「就職するとそんなかんじなのか、会社に所属することは会社にあった「かたち」になることなんだなぁ」と漠然と思っていたが、いまでは会社であれ、研究者コミュニティや創作活動であれ、ある単一のコュニティにどっぷりつかってしまうと、それはもう、何があっても決まった「かたち」になってしまうのは避けられないんじゃないかと最近思う。「いろんな話を聞いて幅を広げることは研究者としてとても大切です」と指導教員は言っていたが、それを実際にできている研究者はどれだけいるのだろうか。その「幅」の中に、服を作ることや、旅をすることは果たして入るのだろうか。もし「プロの研究者」たるための幅が、「古典系だけじゃなくて量子系にも関心を持ちましょうねー」とか、「情報系にも造詣が深いと新しい発想が生まれますよ」程度の幅なのであれば、それはやっぱり「数理科学」の枠組みの中の話でしかなく、やっぱり俺は身動きができなくて苦しくなってしまうと思う。かといって社会とか文学とか、全然違う領域と物理を学問としてつなげるだけの腕力があるとも思えなくて、結局身近な、手なりな研究を続けていくことになるんだろうか。ph.Dを取って企業に勤めると、俺はダイキンやら早川書房やら公務員のかたちになるんだろう。それを嫌がってアカデミアに進んだとしても、結局物理学のフィールドでは物理学者のかたちがあって、知らず知らずのうちにそのかたちになってしまうのだとしたら、それはもう本当にどうしようもなくつまらないと思う。 けど、だからと言って、風来坊を気取ってあちこちを流浪したいわけでもない。どこかに居続けたいわけでもなければ、どこにも居場所がないのも嫌。どうすればよいのか。

最近,東浩紀の「弱いつながり」という本を読んだ。インターネットと人間社会のつながりについてひとしきり語った後、

ネットに依存していると、自分の荷姿ばかりに囲まれて、弱い絆を掴む機会を失い、人生を豊かにする機会を失う。 対抗するには、リアルで予想外のことをするほかありません。

と話をまとめる。
偶然性に対して開かれていること。絶えず外部に自分を開き、ある「かたち」に固まるぎりぎりのところに絶えず身をさらすこと。自分を定義しないし、させないこと。研究と、旅と、趣味と、すべてと、それぞれを統合して自分であること。

 家に帰ってご飯を食べて、しょうもないYoutubeをみても気が晴れないときは、ランニングをして近所の公園で懸垂をする。この習慣は断続的にであるが去年の春あたりから続いていて、最初は5回もできなかった懸垂が昨日には11回もできるようになった。体を動かしてランニングをするとアドレナリンがでて気分が爽快にになり、アパートに戻ってシャワーを浴びるころには上にうだうだ書いていた思いなんてすべて消えてしまう。この段落の前まで自室で書き上げた後、4kmのランニングをして、もう一度画面に光る文字の配列を見て、1時間前の自分に「小難しいこと考えんと走って寝たらええねん」と思う。「いつでもどこでも、機械によって脳内にセロトニンがいっぱいの状態にできる、幸せな男の子」のSFを読んだことを思い出す。