どうすればよかったか?
友達が「どうすればよかったか?」という映画を見る企画を作った。この映画は、監督自身が家族を20年以上にわたって記録したドキュメンタリー映画であり、統合失調症を発症した姉とそれに対する両親の対応を中心に、家族の葛藤と対話を描いたものである。企画当日の晩に友人と食事をする約束をしていたのでそのついでに、と思って参加したが、友達と遊ぶ前にサクッと見る映画にしてはえらいカロリーの高い映画だった。
映画そのものは、「どうすればよかったか?」という問いを軸に、統合失調症を患ったであろう姉と家族とのかかわりを中心に描いていくドキュメンタリー調のそれである。内容が詳しく知りたい人はホームページに行ってネトフリか監督に電話するかなにがしかの方法で見てください。
以下では映画を見て考えたことをつらつら書く。
ふつうの学生生活、ふつうの男の子、ふつうの家族...「ふつう」とはなにか?「家族」というものを例にとって考えてみる。僕自身の実経験としては、「僕自身の家族」しか経験していない。そのほかに断片的に経験する家族として、「僕の友人知人の家族」と「作品中の家族」との経験がある。前者に関して、友達の家に泊まったり友達の家族と酒を飲んだりといった経験の中で間接的に「友達の家族」というものを経験することがあると思う。けれども、第一に「類は友を呼ぶ」の言葉の通り、僕が合う友人の家族というのは多かれ少なかれ自身と似た社会状況の家庭が多いと推測するし、第二に友人の家家での遊びにおいて僕が経験する友人の家の家族像は言わば氷山の一角に過ぎないものだと思う。つまり、個人的な経験の中で他人の家庭が「普通の家庭」かどうかを推し量るのは非常に難しいということだ。では、作品からはどうか?後者は「作品」である以上、いくばくかのバイアスがかかっているであろうし、多くは「普通の家族」というものとの差異としての描かれ方をある程度していると思う(要検証)。つまり、「普通の家庭」というものがアプリオリに措定されているのではないか、ということだ。まとめると、僕らは何となく「普通の@@」というものを断片的な経験から形成しているが、その内実は非常に不確かであるということが言いたい。フィクションのそれは普通をアプリオリに措定しているし、個人的な経験からは差ヌル数の観点から亜も各家庭へのコミットメントの観点からも「その家庭が普通かどうか」を推し量ることはできない。
作中で、統合失調症の姉を南京錠を用いて家に閉じ込めるシーンがあった。また、作中で両親が「普通の子」という言葉を使う場面が何度かあった。それを見て僕は「明らかに普通でない」と思った。しかし翻って、僕は自分の神田意を一度しか経験しておらず、その他の家族経験から構築される「普通」も上記のように曖昧である。そのような立場に立った時に、現実に映画のような場面に直面したとき、僕は文字通り「どうすればよかったのか」。自分の人生の有限性について考える種があるように思うけれど、酒を飲んで眠いのでここらでいったん止めておき、元気があれば今後追記することにする。